tondokoro's willとんちゃんの遺言 

人生の楽しみ方を深く追求していこう!

自分とは何者か

自分とは何者か。そこに答えを見出せる者はなかなかいない。しかし、我々は生きているゆえに、自分には名前があり、そこに住む社会があり、その社会を基盤とした中で、自分の存在を示しながら生きている。私の場合、今自分がある存在として、自分には名前があり、職業があり、家族があり、様々な人間関係がある。しかし、それらの中に絶対と呼べるものは何一つない。死んでしまえばこの社会での存在はなくなるし、家庭や職業、人間関係においてもすべてがうまく続いてく保証などどこにもない。ある人が言った言葉に「自由とは常に不安であり、逆に不自由を求めることによりその不安を解消し安定を求めることができる」というものがある。具体的な例で言うなら、仕事や家族、その他、様々な人間関係を安定させて生きていくことが、人間の幸せ、つまり安定した生活ということになるが、視点を変えれば、仕事はほぼ1日の時間を束縛される不自由の連続であり、家族においても子供がいるものはその成長するまで親としてのその義務を果たさなければならない。つまり不自由であっても、そこに自己の幸せを求めていくことがこの社会が成立している条件となっている。国家がまさにそのいい例で、国家が安定すればその国の国民の生活の安定に繋がるし、その反対に国家が戦争などに巻き込まれてしまえば、個人の自由も不自由も関係のない環境におかれてしまうかもしれない。国家に属するとは決して自由なことではない。国家に属するということは不自由の中で生きざるを得ないことを意味する。国家が定めた法律を犯せば、罰を受けることになるし、国家の経済力もその国の国民の経済的能力によって決定的に変わる。つまり国民こそが国家の現在の形を作り出している根源なのだ。日本人の場合、我々の祖先が勤勉であった国民性があったからこそ、今の日本社会の現状がある。この社会(国家)に不自由さあってもその中で、自分の存在を示してきたからこそ、この国が国家として成り立ってきたのだ。多様化する価値観の中で、国家の根源ともいうべき国民が、それぞれの自由を求め、不自由さを求めなくなってきた場合、その国の未来は危うい。いつまでも親のすねをかじっていたり、そこそこ食えていければいい、子供なんていいらない、家族もいらない等、個人の自由を求める国民が増えていくことによって、その国の未来は「不安」という名の「混沌」に落ちいっていく気がする。今の日本、どこか危ういを思うのは私だけだろうか。仕事への意欲低下、他者への無関心、国家への冒涜、政治家の資質低下、政治への批判、メディアがつくりあげる他者への干渉、そんなことが今後増えていく社会になれば、国民の資質がますます低下し、不安に満ちた国家になっていくことが私の今の不安である・・・。

自分とは何者か。今一度皆に考えてもらいたい。そして人生とは何かを。