tondokoro's willとんちゃんの遺言 

人生の楽しみ方を深く追求していこう!

正直者は世間知らずのバカ野郎

この世のほとんどは嘘である

この嘘だらけの世の中から本物を見つけていかなければならない

これぞまた人生ゲームの醍醐味である

先日あまりにも正直な私の健康診断書を保険会社に提出してしまい

結果私の会社に大損害を与えてしまった

私の健康診断書は高度な人間ドックの結果がそのまま書かれていたため

体の隅々細かいところまですべて結果が書き記されており保険会社では

完全アウトとなってしまい保険金の掛け率がかなり上がってしまった

ごく普通の保険会社用のそこらへんお医者さんの健康診断の結果であれば

100%問題なかった結果だったものが

こと細かい診断結果ではアウトということになる。

つまりほぼ私のような健康な人でも超最新精密検査の結果となれば

半分病人扱いアウトということになる

体に全く問題ない人なんてそんないるわけがない

まして40代後半から50代にかけては何かしら体に問題ある

それは普通の健康診断だけでわかるはずがない。

逆を言えば私の診断書は体の中にがん細胞や今すぐ何か悪くなうような

結果などないことを見事に証明しているもっとも信頼できる診断書なのだ

 

それに気づかない保険会社は無知である

保険を通すために作成された

そこらへんの町医者の簡単な診断結果を信じる

保険会社こそこの世の嘘を社会に撒き散らしている存在のひとつなのだ

 

正直者がバカをみる

ほんと私はバカだった

無知だった

あんな診断書を出すべきではなかった

嘘つきには嘘で勝負するべきだった

 

世の中の本物を見つけるって大変なことだ

またひとつ勉強になった

レベルアップ!

人を簡単に信用してはいけない

 

 

 

人生ゲーム

 

人生はゲームみたいなもんだ。

プレイヤーは自分

自分のコントロールキーを使って

自分自身を動かしていく

ファイナルファンタジーより壮大?なロールプレイングゲーム

しかしゲームには目的を達成させる必要がある

すなわちそのゲームを最終的にクリアするためには

目標は自分自身が設定させなければならない

すなわち何に向かって自分は生きてくのか

そこに向かうにはどう生きるべきなのか

つねに迷い葛藤しその節目にある答えを見出し

次のステップに進んでいく

そこには苦しみもあれば楽しみもある

苦しみだけでは人間は生きられない

楽しみだけでも人間は生きられない

つまり苦しみと楽しみは表裏一体なのだ

ゲームでいうならば自分をレベルアップさせていかないと

次のステージにはいくことができない

そんな面白さこそがゲームである

だから人生はゲームみたいなもんだ

というより

ゲームのように生きるべきである。

最終的に自分の人生が終焉を迎えるとき

そこに微塵たりとも悔いのないものと言えるか

精一杯生きたと言えるのか

まだそこにたどりついていない私は

まだゲームの途中である

自分のレベルが今いくつかはわからないし

自分の立っている位置が正しい場所なのかもわからない

ただひとつ言える事は

このゲームを楽しむことだけ!

楽しくやるからこそどんな困難が待ち受けても

人間は再び楽しく生きようと無意識に行動していくもの

まずは自分の今立っている場所はしっかりと確認し

次に右にいくのか左にいくのか決めていくこと

もしかしたらゴールはひとつだけではないかもしれない

この人生ゲームに同じゴールはどこにもない

自分の心ひとつでゲームは進展していく

これほどのゲームを楽しむことは

50近くのおっさんでもまだ遅くはない

この命果てるまで何かを成し遂げるために

今この時間を一番大切に生きることが

このゲームの必勝法であるのは間違いない

 

社会のなりの果て

今の芸能界、不祥事を起こせば

たとえ容疑者であっても

その人が出演したテレビ番組、映画

音楽アーチストであれば

CDやDVDなど

あらゆるものが放映中止になったり

販売禁止になったり

全く持って世知辛い世の中となった

これを昭和時代に適用するとなれば

どれだけの人が制裁を受けたことになるか・・・

その容疑者のCDが回収、放送禁止するのであれば

ビートルズの作品は全部回収されることになる

彼らの音楽もまた覚醒した中で作られているものが多い

しかし彼らがドラッグで捕まっても作品が非難されることはなかった

というよりロックそのものが反社会的だったはずなのでは・・?

そこが社会という名の矛盾

 

何か事を起こせば、なんでもかんで自粛規制・・・

いったい誰がこんな社会の風潮をつくりあげているのか

不倫をすれば世間のさらし者。

ドラッグをやったことが判明すれば、昨日の友は今日の敵

不倫?他人の不倫など私には興味がない

その家族や子供が可愛そうなだけ。

ドラッグ?そんなの使用した人の問題

社会が使用したその人の家族や子供まで追い込もうとする

社会がここまで制裁を加える必要はない

社会ってそんなに偉いものなのか?

ただの話題集め

誰かの利益にするために

利用され続ける著名人

司法よりも国民の意識を煽り

その感情で、その人の罪をより重くする

更正させることよりも攻撃すること

なんか面倒な世の中になってきた

著名人に関わらず

誰しもが息のつまりやすい世の中になってきている

人間は押さえ込もうとすればするほど

本来あるべきものの逆のベクトルに向かう

自分は大丈夫!

ふっ!明日はわが身

 

 社会の風潮に惑わされることのない

生き方がしたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

changes

三つ子の魂、百まで!

この社会の中で

人を変えようなんて大それたことは私にはできない。

生まれ持った性質、価値観、能力、やる気、本気・・・

もしそれを変えられるとしたら、

それは己のみである。

私は人を変えたいと思うくらいなら

自分を変えることに集中するようにしている。

だから敢えて100歩譲ることもある。

だまって見守ることもある。

感情と理性。

仕事は感情に流されることなく、

一歩踏みとどまって、考え、理性をもって行動に変えること。

相手にとって一番大切なことを想像してみる。

世の中完璧な人間などいない。

時には失敗や挫折することもある。

しかし失敗や挫折ばかりが人生ではない。

必ずいつかその人が成功し輝ける時が来る可能性もある。

その芽を今摘んではならない。

自分を変えたいと思うときこそが本当のチャンス。

そこに賭けてみる経営を私は目指す。

だからこそ自分が色んなことを学ばなければならない。

 

 

 

うらはら

うらはら・・・

裏腹・・・

 

世の中うらはらだらけ・・・

米朝首脳会談?とんだ茶番劇だった。

どっちが勝った?っていうより、

北朝鮮が核の施設を排除するなんて最初から可能性0。

北朝鮮は武器を作って自国のため、

中東のために武器を輸出して何ぼの国である。

ある人たちにとって北朝鮮みたいな国はなくてはならない存在。

その最大の理由は戦争は金になるからだ・・・未来永劫。

だからこの世界から永遠に戦争がなくなることはない。

戦争をなくそうとすることは必要なことではあるが・・。

 

我々の身近な社会の中でも

うらはらはあちらこちらに・・・

すべてがそうだとは言わないが、

うらはらでしか生きられない社会システム。

 

しかしいつしか、うらはらのない人生の時を過ごすことが

私の最後の夢である。

 

 

線香花火

時の流れと共に友達は変わる~という歌がある。

真心ブラザースのデビューアルバムに入っている曲。

もう30年前くらいの曲だ。当時よく聴いていた。

あれから30年。

本当に時の流れと共に友達は変わっていくものだ。

 

人と人のつきあいは

まるで線香花火のようなものだ。

最初はゆっくり・・・

ゆっくりと火花がつきはじめ、

徐々にその火花は強くなり光が増す。

そして仲良しまっしぐら!

やがて時間が過ぎれはどんどん火花は弱くなり、

その関係も徐々に冷め、距離が生まれ

最後は地面に落ちて消えてなくなる。

つまり最後は別れ行く。

 

私は人の付き合いってそんなものではないかと思う。

冷めた見方かもしれないが

この世に不変的なものなど何一つないということ。

出会いがあればいつか必ず別れがくる。

これを当たり前と思えば、

人生というものをまた違う角度から見ることができる。

ただ、今、そこにいるあなたを大切に思う。

過去にも未来にもとらわれず、

ただ目の前にいるあなたを好きと思える。

それこそ

今を生きてる!って感じ得る唯一の手段。

これは恋愛の話ではない。

人間社会を生きて行く上で大切なこと。

来るものは拒まず、去るものは追わず

時の流れに身を任せ

今そこにいる人たちと何かを成し遂げる。

出会いがあれば別れもある。

時の流れと共に友達は変わる。

この世に永遠なんてものはない。

 

 

 

 

生きる意味

感情のままに経営するといつか破綻する。

そこに理性と知性を組み合わせない限り経営は不可能である。

だがしかし人間は感情に流されやすい生き物である。

そんな時私が己を律するための言葉がある。

自分が人にされて嫌だと思うことを自分は人にしない・・・

かなり深い意味こめられているが、

人間社会を生きていくためにはこれが重要である。

すなわち想像力である。

 

人間は感情の生き物であると同時に

倫理や道徳を学ぶことができる唯一の生き物である。

人として何が正しいことなのか。

それを学ぶために日々の生活が存在する。

 

 

生きるとは決して簡単なことだけじゃない。

 

 

炎上なんて関係ねー!

最近ネットでよく炎上という言葉が使われている。

調べによると炎上は日本の人口あたり3%弱くらいの人が

批判すると大炎上というそうである。まあ日本の人口1億人として

300万人程度くらいしか批判していない。

残りの9700万人は特にネットで批判していない。

わずか3%で世論が動くとは本当に恐ろしい世の中である。

そんなことに惑わされず生きることが大切である。

他人を間接的に批判しても、何の意味もない。

ましてネットなど、誰でも好き勝手言える。

無責任がまかりとおる時代になった。

ある俳優が1回罪を犯しただけで

ネットの力でその俳優一生抹殺することが出来る時代なのだ。

ある音楽アーチストがプライベートで不倫疑惑を持たれただけで

引退を余儀なくされる時代なのだ。

本人が罪を償い、また公の舞台に復帰できる社会。

そんな日本社会であってほしい。

日本人の義理人情はどこにいったのだろうか。

わずか3%の人間が日本をいつしか食い潰す。

 

 

 

 

経営

経営の経は仏教の中では真理を表すという。

つまり物事を考える軸となる経糸なる存在、

その代表となるのがお経ということになるであろう。

それは別と考えても、経営の意味とは何か。

文字通りに読み解けば

経営とは経糸となる軸を中心とした営みということになる。

つまりに、真理を全うするための営みというもの。

もっと簡単にいえば、

何を重んじて、どう生きるか・・・

これは私の発想であるが、仕事の経営で言えば、

何のために人は働くのか。

会社で言えば、企業理念を縦軸として、

経営理念を横軸と考え、どうそこに糸を織り成すかということである。

糸がうまく織り成せば布になるが、逆に糸が絡み合ってごちゃごちゃに

なってしまえば何もそこには生まれない。

企業理念は大きな柱で、

経営理念はその柱に絡み合わせて編み出すもの。

そこに人として生きがいを見出す。

それが仕事または使命というものかもしれない。

 

 

 

 

自分とは何者か

自分とは何者か。そこに答えを見出せる者はなかなかいない。しかし、我々は生きているゆえに、自分には名前があり、そこに住む社会があり、その社会を基盤とした中で、自分の存在を示しながら生きている。私の場合、今自分がある存在として、自分には名前があり、職業があり、家族があり、様々な人間関係がある。しかし、それらの中に絶対と呼べるものは何一つない。死んでしまえばこの社会での存在はなくなるし、家庭や職業、人間関係においてもすべてがうまく続いてく保証などどこにもない。ある人が言った言葉に「自由とは常に不安であり、逆に不自由を求めることによりその不安を解消し安定を求めることができる」というものがある。具体的な例で言うなら、仕事や家族、その他、様々な人間関係を安定させて生きていくことが、人間の幸せ、つまり安定した生活ということになるが、視点を変えれば、仕事はほぼ1日の時間を束縛される不自由の連続であり、家族においても子供がいるものはその成長するまで親としてのその義務を果たさなければならない。つまり不自由であっても、そこに自己の幸せを求めていくことがこの社会が成立している条件となっている。国家がまさにそのいい例で、国家が安定すればその国の国民の生活の安定に繋がるし、その反対に国家が戦争などに巻き込まれてしまえば、個人の自由も不自由も関係のない環境におかれてしまうかもしれない。国家に属するとは決して自由なことではない。国家に属するということは不自由の中で生きざるを得ないことを意味する。国家が定めた法律を犯せば、罰を受けることになるし、国家の経済力もその国の国民の経済的能力によって決定的に変わる。つまり国民こそが国家の現在の形を作り出している根源なのだ。日本人の場合、我々の祖先が勤勉であった国民性があったからこそ、今の日本社会の現状がある。この社会(国家)に不自由さあってもその中で、自分の存在を示してきたからこそ、この国が国家として成り立ってきたのだ。多様化する価値観の中で、国家の根源ともいうべき国民が、それぞれの自由を求め、不自由さを求めなくなってきた場合、その国の未来は危うい。いつまでも親のすねをかじっていたり、そこそこ食えていければいい、子供なんていいらない、家族もいらない等、個人の自由を求める国民が増えていくことによって、その国の未来は「不安」という名の「混沌」に落ちいっていく気がする。今の日本、どこか危ういを思うのは私だけだろうか。仕事への意欲低下、他者への無関心、国家への冒涜、政治家の資質低下、政治への批判、メディアがつくりあげる他者への干渉、そんなことが今後増えていく社会になれば、国民の資質がますます低下し、不安に満ちた国家になっていくことが私の今の不安である・・・。

自分とは何者か。今一度皆に考えてもらいたい。そして人生とは何かを。

ならず者国家

北朝鮮がまたミサイルを撃った。北朝鮮と対話が必要である!とか言っている議員は、これまた馬鹿である。きっといまだにもりかけ言ってる奴らがこういうことを言うだろう!対話?馬鹿いってんじゃねえよ!どれだけ今まで日本が北朝鮮に騙されて金つぎ込んできたと思ってんだよ。やつらは息を吐くように嘘をつく。それがあのならず者国家なんですよ!

かと言って戦争しかけることも日本はできない。自国を防衛することさえ、憲法上ままならない。こんな国がどこにあるのか。まあ、先進国では日本くらいであろう。すぐさま憲法を改正し、自国を守れる国にしなければならないのは当然なことである。しかし、この日本、そうはいかない。その原因こそ、もりかけ、と騒ぐ国賊連中である。奴らには日本人の血は流れていない。なぜならば、日本も守る気概がまったくないからである。それが嘘だというなら、対話で北朝鮮から核兵器を取り上げて来なさい!拉致被害者を連れ戻して来なさい!

世界の平和がなぜ存在するのか。それは北朝鮮のような国がまずないことが先決である。戦争好きなアメリカを問題にする前に、まずは近隣の北朝鮮を民主国家にすることが未来の世界平和の一歩に繋がる。

まずは憲法を改正して、第9条を変えることが急務である。他国に戦争を起こさせないために・・・。

アホか馬鹿か、もりかけを言い続ける国賊議員

今年ももうすぐ師走。国会を見ると、いまだに、もりかけ・・・。この国は本当に悲しい国になってきていることを実感。もっと進めるべき議論があるのに、なぜ、まだもりかけなのか。野党は国の足を引っ張るだけの存在でしかない。これを追求したところで何も国にとっていいことはない。野党はますます日本国民に馬鹿にされ続けるだろう。とにかく国会には馬鹿が多い。なぜこんなに馬鹿が多いのだろう。あんなやつらのためになぜ税金を払わなくてはいけないのか。馬鹿らしくなってくる。もりかけと騒いでいる議員がいたら、そいつに言いたい!お前らがいないほうが、国のためになる!と!

黒い岩

私は高校生時代にあまりいい思い出がない。高校生時代を満喫した人も多いと思うが、私はその逆で、それほど楽しいと思えることない高校生生活を送っていた。とくにいじめにあったとかそういうことは全くないが、どこか内向で、人とあまり馴染めない、馴染みたくない、そんな気持ちがいりまじっていた高校生時代であった。

30年前の高校生時代で最も印象的だったこと、というより今でもよく思い出すことがひとつある。それは私の時代には修学旅行がなかったということだ。私の3年前の学年を最後に修学旅行はしないと学校が決めたらしい。原因となったのは、その前(4年前)の年の修学旅行で、旅行先で同じ県で修学旅行中だった他校といざこざがあったらしい。それが原因と言われている。まああくまでも噂だが、噂のわりには、実名も挙げられており、事実であろうと思われる。
修学旅行中止の原因をつくった中心人物のひとりは現在、新潟○区選出の元民進党の衆議院議員であるという噂?越後の暴れん坊、そんな言葉を売り文句に数年前から議員をしているようだ。まあ、いまさらこんな話、時効成立ではあるが、私の母校で修学旅行の思い出を作れなかったのは、彼らがクソがつくほど馬鹿人間だったのが原因である。クソ馬鹿共は他人の人生から高校時代の修学旅行の思い出を抹殺させた。この罪は重い。彼らは今、このことについて何を思っているのであろうか。ぜひ教えてほしい。

過去に人の人生を踏みねじってきた輩が、現在、テレビや政治の世界でデカイ顔しているのを見ると異常に腹が立つ。昔は不良で今は更生し大活躍!そんな輩が芸能界や議員に特に多いのは間違いない。彼らの不良な行いで虐げられた人たちが星の数ほどいる。彼らはそんな昔の不良たちの今の姿を見て何を思うのか・・・・。

昔、不良やってた!を恥じらいもなく堂々語っている馬鹿は、いますぐ、お詫び行脚の旅にでもいきなさい!!

 

PTA

先週末は、全国どこの学校でも行われているPTAが中心となって企画運営する年一度のイベントがあった。いわゆる学校フェスタである。企画段階から担当する委員会や本部役員にとっては1年間の活動の中で最も時間と手間のかかる企画である。世間ではPTA活動の簡素化が望まれてる中、このようなイベントの負担は非常に大きい。しかし、子供たちや地域の人たちのために行うこのような企画まで簡素化されたら、何のためにPTAがあるか、その存在すら不必要になってくるのではないだろうか。私のこのようなイベントを企画準備していくことが、親の学びだと思っている。準備段階において色々なトラブルや問題点などにたびたび遭遇しながらも、徐々に形を作り上げていき、本番当日を迎え、イベントをやり遂げること、この過程の中にこそ学びがあり、やり遂げた後の達成感や感動、会員同士のコミュニティが深まることが、子を育てる親にとっては、貴重な財産になると私は信じている。
何でも合理的に物事を済ませようとする今の社会状況の中で、どこかアナログチックで、手間と時間をかけないとできないことを敢えてやろうとする思いこそが今のデジタル的社会では最も大切なことで、大人が体をはってその思いを示し、子供たちに伝えなければならない重要な役割を担っていくのではないだろうか。

大人の背中を見て子供は育つ。

法人会青年部

約1年ぶりくらいに法人会青年部の例会に出席。企業向けのキャッチコピーをつくる勉強会&懇親会であった。久々に合うメンバーもたくさんいた。ずっと休みでいながらも、入会していることによって、いつでも繋がることができる仲間がいることに感謝であった。自分から去れば、二度とその中に再び入ることはできない。人生は一度っきり。無駄な時間は浪費はしたくないが、昨日の法人会活動は久々に有意義な時間を過ごせた。組織とは何をやるか、より、どう繋がっているか、が重要である。逆に繋がりに価値を見出せない組織や仲間は、自ら切り離していくしかない。